ああ!ことばを喋れたらよかった!

喋れないならペンで戦うしかないじゃないか

アロマンティックが恋愛してみた話

突然だけど、私には彼女がいる。

彼女の傍にいるといつもより呼吸がおだやかになる。私は誰かに求められることに存在意義を見出しすると同時に自分を消耗していく人生を送ってきた。彼女は誰かに求められると疲れて歩けなくなる。

お互いに、過度に求められることの苦しさを知っているから、適度な距離感のまま親密になるのは時間の問題だった。

私は彼女のことが好き……というよりも、大切にしたいと思っている。彼女もきっとそうだろう、今度こそは誰かと人生を歩みたいと思っているはずだ(そうあってほしいな)



アロマンティック、アセクシャル

その言葉で私は自分の「他の人と違う」ことを理解して、そのラベルに目を凝らすように勉強した。私は恋愛が分からなくて、他人とセックスするということにあまり魅力を感じない。そのラベルに安心して、そうありたいと思っていた。


けれど彼女と出会って、私は自分の中に芽生えたものを数ヶ月かけて分析していった、その先にあったものは、世間一般でいうところの「恋」だったのだ。

全く笑える話で、私は自分がアロマンティックであるというラベリングに依存していた。だって、容易に相手のテリトリーに踏み込んだり、憎しみを抱いたり、溺れるほどの恋愛を向けられたり、そんな「恋愛」がとてもとても怖かった。だから私はアロマンティックという身分証を保持していたかったのだ。


彼女に告白したのは私からだ。

私はもう自分のことが分からなかった。突き動かされるように彼女のことを考え、彼女の身体に触れることを考え、彼女の手料理を食べ、彼女と「おはよう」と「おやすみ」を交わしたいと毎夜願っていた。

アロマンティックで居られなくなった私は次にデミロマンティックという証明書を抱いて生きている。

人間はなぜ何かに所属するということに固執するのだろう。家庭、学校、会社、友人、そこで生きることで存在意義や価値を見出そうとする。

どうして、自分は自分だ というただ一つのサークルに所属できないのだろう。

所属することで得られる報酬…安心感、自己肯定感だけではない。他人との価値観の相違、相手の気分に振り回される、デメリットもある。


どう足掻いてもどこかへ所属しなければ人間は生きていけないんだよ、と人から言われたことがある。けれど、出来るだけデメリットのない世界を選べばいいのだとも言われた。必要最低限のテリトリーに身を置いて、他者と寄り添い相互で助け合い生きていく。



私は彼女という居場所を選んだ。アロマンティックというラベルを剥いで、そのかわりに誰かと呼吸を合わせることを選んだ。

セクシャリティは流動的だというけれど、それは他者との距離感に基づくものだと個人的に思っている。彼女と出会えなければ私はアロマンティックというシェルターの中で暮らしていただろう。


彼女はとても良い人だし、私たちは今のところ穏やかな関係を築けている。ずっとそうありたい。新たに選んだ居場所で何のトラブルもなく暮らしたい。

けれど、居場所を選んだ以上、デメリットは必ずついて回るもので、こんな眠れない夜には彼女と仲違いする未来を考えて泣いてしまう。恋愛はいやだなと今でも思うけれど、恋愛しなければ彼女の深い部分を知ることはなかった


ああ、恋愛一年生は毎日大変だ!この居場所を居心地よく守るために何ができるか、私たちは模索して生きていく。ラベルに囚われずに生きるべきだなと思う。みんなよく恋愛できるね、私はまだ怖いよ…

でも彼女のことはとても愛おしい。難しいことを長々吐き出したけれど、答えはきっとこの一言だ。彼女が愛おしい。ただそれだけのこと。


今書かなきゃ、いつ書くんだ?

そう、今しかないのだ。これこそが躁状態の人間のすがた……かもしれない。


今はAM8:45 私は居心地の良い布団の中にいる。なぜブログを始めたのか?答えは簡単で、寝ていないからである。私は寝ていない。正しくは24時間起きているという状況だ。




双極性障害二型という名前を与えられる前から、自分はおかしい、病気なのでは、という意識があった。

学校に行きたくない(課題が終わっていないから!)(朝起きれないから!)(バスの時刻を逃してしまったから!)

理由はほぼこの三つで、いじめのような人間関係トラブルは有難いことに殆どなかった。にも関わらず、学校という「目的地」に「継続して」「通う」ということがうまく出来ない子どもだった。

仕事もそうだ。「職場」へ「時間通り」に「通う」さらに併せて業務知識を「どんな時も安定して提供」しなければならない。


思うに、気分の波があり「ダメな日」は「通うことができない」家を出るどころか布団から出ることすら厳しい。

打って変わって「やれる日」は「通うことは勿論」帰りには「寄り道」をする。

気分が良いからサイコー!という訳ではないことを15年ほど付き合ってきてようやく学んだ。今だってブログ書いて自分の主義主張を携えてあわよくば同じ気持ちを抱く読者さまと会えたらイイナ!サイコー!という状態。あとで恥ずかしくなってブログ消しちゃいそう。


目的地へ毎日継続して同じ時間通う、という至極当たり前のことをなぜこなせないのだろう。

先に述べた”課題が終わらない”は「完璧主義」「ダメな日が続いていた」が原因だし、”朝起きれない”も「ダメな日が続いていた」「躁で寝ていない反動が来た」だし、”バスの時刻を逃したから”は「躁・うつ共に時間の感覚がなくなる」から、かもしれない。これはあくまで私個人の経験と分析なので鵜呑みにはしないでね。


これを書いている今の私は恐らく軽躁状態で、近いうちに睡眠リズムの反動や意欲関心の低下が訪れるはずだ。そのときにああまた病気に振り回されてるなあと 客観的に振り返れる用のブログである!……となると良いな…

ブログって私が高校の時に流行ってたけれど、やっぱり「多くも少なくもなく決まっただけ」の「継続」することは出来なかった。今度こそ頑張れたらいいな…


毎日繰り返す日常を送れている方は実ははとてもえらい!私もそうなりたいなあ。実はちょっとだけねむい